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2004.09.11

9.11―あれから3年

 今年もまたアフガニスタンからの手紙を再読する。今にして読むと事情も変わってきていることはあれど、投げかけられたものの本質は変わっていないように思える。イラクで、イスラエルで、いや世界中で、テロで死者が出るニュースを聞かない日はないような気がする。あの日、世界が見る中で死んでいった人々は、このような未来を望んだろうか。あまりにも世界各地で人が死にすぎていて、今アフガニスタンがどうなっているのか殆ど聞こえてこないほどだ。ということは、状況に大きな変化はないということなのだろう。

 3年前のニューヨークの9.11、そして今年のロシア・ベスランの9.1。こういうことをしてしまえる人間の心、そして彼らをこういう状況へと追い込む人間の心が恐ろしい。ベスランの学校で、テロリストは人質に対し「お前達は人間ではなく犬だ」と言い、「子どもを撃つなら自分を」と言った老人を撃ち、逃げる人を背中から撃ったのだという。何故彼らはそんなことが出来たのだろう。海外の論調などには、そもそもロシアのチェチェンへの対応がこの事態を招いたのだとする見方もある。直前に相次いだ旅客機や地下鉄駅でのテロといい、そこまで彼らを追い詰めたものは何なのだろう。

 彼らには迷いがない。だから自爆さえ厭わない。それに対して守る側に立つ者が、たとえテロリストであろうとも人間であるのなら殺したくないと迷って弱くなるのは無理もないのかもしれない。兵士は殺されることよりも、自分が人を殺してしまうことを恐れるものだともいう。その迷いは兵士には命取りになる。だから正義を信じ、忠誠を誓って銃を取るのだ。しかし、この地上で最強の軍隊である米軍にあって、イラク駐在の部隊に自殺が多いのだという。彼らは迷い、正義を見失っている。自軍の兵士にさえ正義を説ききれないでいるのだ、イラクから部隊を撤退させる国が出てもそれを止めることは出来ない。スペインもフィリピンも、テロに屈したのではない。それでも留まるだけの正義を見出せないから撤退したのだ。

 正義だなどと言ってみても、それは絶対的なものという訳でもない。人が死んだら悲しいじゃないか、そんなのは嫌じゃないかという言葉さえ、普遍性を持ち得ないのだ。あんな奴は人間じゃないから死んでもいい。そんな自分に都合のいい言い訳で人を殺せるのがまた人なのだ。元々人間には残虐性があるものだという。でもそれを乗り越えられる可能性だって人間にはあるはずだ。絶望と希望とは紙一重、風向き一つで変わってしまうもの。爽やかな秋の風が、良いものを運んでくれると信じたい。風向きを変えるために、自分に何が出来るというのだろう。そう考えながら、哀悼の祈りを捧げたい。


 9.11関連では、「9・11テロ 失敗から学ぶ (asahi.com : コラム : 船橋洋一「日本@世界」)」の指摘が興味深かった。確かに「9・11テロ独立調査委員会」の報告書から分かるアメリカの民主主義の底力は本物なのだろうと思える。そして、日本は本当に民主主義が根付いた国なのだろうかという疑問がまた浮かんでくるのだ。隠蔽体質なら立派にはびこっているようなのだけれど。

 日米で思い出したが、沖縄のヘリ墜落現場に小泉首相はまだ行ってないんでしたっけ。夏休みとやらで沖縄県の稲嶺知事とも会うのが遅れたくらいだから。北方領土を視察してロシアを刺激する暇はあっても沖縄へは行けないのか。人的被害が出てなかったから良しという問題ではないだろうに。何だかなぁ。

9.11―あれから2年
9.11――あれから3年・2

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