報復と償いと
「死刑と償いと抑止力と」へ、ありがたくもTB頂きました。
ハンムラビ法典の「もしも人が他の人の目を損なった場合は、人々は彼の目を損なわなければならない」という一文は、そもそも、古代の砂漠の部族社会で行われていた、残虐な行き過ぎた復讐の連鎖に、やられた分しかやりかえしてはいけないという一定の枷を嵌める為のものであったと、確かイスラム関係の本で目にしたのですが。
「目には目を」の本来の意味は仰る通りです。「殴られたからと言って相手を殺すのはやり過ぎ」というものですよね。自分の記事でこのあたりフォローしてなかったんですが、どうも世間では「命は命で償え」と取られているようで。
人なればこそ、理由もなく(自分も含めた)人を傷つけ、殺してしまえるのではないかと思います。
これはこれで真理だろうなとも思います。生存競争以外の理由で同族を殺せるのは人間だけではないのかと。しかし「人間性」とはそうした思考停止を是としない心の働きでもあるはずなんですよね。
償いとは何なのでしょうか。個人的には、被害を受けた側(この件で言うならば遺族でしょうか)が、許す気持ちになれる状態を加害者が作る事が、償いではないのかと思います。
真意は藪の中にせよ、報道されている情報の上では、望み通りに死刑となった宅間氏を、遺族は許せるのでしょうか。無理じゃないかなと思うのですけれども。
本来「償い」とは、「埋め合わせる」といった意味合いのようです。今回のケースでは、被害者の遺族が、彼がたとえ謝罪を口にしようと許せるはずもないと思えますし、死刑という形で相手を殺してしまってもなお、遺族の心の隙間が埋められるようなものでもないでしょう。
ただ、死刑とはいえ相手を殺すことは、ある意味思考停止とも思えるのです。その後のことを考えられている場合は稀とも思えるからです。無責任だ、とも言えるかも知れません。そのような死が「償い」になるとは思えないのです。
……などと拙く連ねてはみたのですが。
償わせたいのならば、殺すべきではない、と思います。報復と償いはノットイコールだ。報復して、してやったとすっきりした所で、自分の行いが相手と同等(に残虐であったり卑劣)であった事に気が付けば、後に残るものは何だ。空しさと罪の意識ともう償う事は出来ない事への絶望ではないのか。
奇麗事と思われるのならばそれも結構。だけれども、誰が死んでも、もうあの人は帰ってこない。そして、残された人間は、生きている間は一生懸命生きなくてはならない。
本当にその通りだと思います。
最終段落のこのあたり、一層頷きつつ拝見しました。改めてTB頂けて良かったと思います。ありがとうございました。
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