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2007.06.30

ゼーガペイン#24 消滅と死と

 桶谷顕さんの訃報に接し、改めて桶谷さんがゼーガペインで最後に書かれた#24「光の一滴」を振り返ってみる。

 この回は、名前のある「退場者」が一番多かったのではないかと思う。
 シマ、シマのオリジナル、そしてAI達。
 彼らの消滅は果たして死と言えるのか、実はそれすら一見定かではない。

 かつてナーガの側近であり、幻体化した最初の人間であるシマのオリジナルの容貌は、復元者を思わせる光の紋様を持つ。シマは幻体クローンとして彼に生み出されたものであり、そしてAIはシマがプログラミングした人工人格にすぎない。退場者たちは全て普通の人間とは言いがたい存在だ。

 オケアノス司令であり舞浜南高校の生徒会長として、主人公のキョウ達と共に戦ってきたシマについては、 「魂の戦いに敬礼」 として、いわば人並みに別れの場面が用意されている。だが、オケアノスのクルーが舞浜サーバーに退避した後は、司令席から力なく転げ落ち、彼を助け起こす者は居ない。そこへ猫がやってきて、透明な微笑を浮かべたシマは「やっと、来たか」と呟き、猫と共に光となって消える。

 シマのオリジナルはその猫と同化したように見え、キョウに雪割草を見せた後、 「ゼーガペイン……大いなる痛み。清らかな、初めの一滴となれ。後は、頼みます」 とだけ静かに告げて、やはり光となって消える。ここで画面までぶちっと消えるのが自分には衝撃的な演出だった。後になって思えば、これはアビスの言う「裏切り者」に対する粛清の暗示なのだろう。

 オケアノスに残されたAIは、シマのオリジナルから托された技術でQLの積層化を急ぐ。攻撃に晒されて、AIは次々と消えていく。平然と、或いは笑みを浮かべて。 「未来は紡がれた!」 と言い、その言葉通りの未来を残して。

 この回だけを見ると、確かに彼らは単に消えただけのようにも見えてしまう。だが#25「舞浜の空は青いか」を見れば、シマもシマのオリジナルもそれ自体としては登場せず、彼らを繋いだ猫が舞浜サーバーに現れて、二人の残したプログラムを展開してやはり消えてしまう。AIは一通り再生するが、彼らはナーガによって乗っ取られてしまい、人工人格など使い手によってどうとでもなるという都合の良さを皮肉られている。尤も、元々のプログラムも生きているのかと思わせる描写もされてはいるのだが。──そういう次第で、やはり#24で彼らは死んだのだ、ということを#25になって改めて思い知らされる作りになっている。

 勿論これは、終盤の展開は色々と忙しく、シマへの敬礼を除いて、死にゆく者への別れだとか、悼みだとか、そうした感傷に浸る余裕はなかったという事情もあるのだろう。だが見直してみると、これはかなり意図的に、脚本の段階でこういう展開になっていたのではないかと思えるのだ。

 #24では、明確な死を描くことで感動を導こうというのではなく、あくまで死とはその端緒においてその人格の消滅として現れるということが描かれている。そして、その死の瞬間まで、彼らは出来る限りの役割を果たして、未来を繋いだこと。そうした生き様が描かれているのだ。それは同時に、最後の瞬間に見せるのが穏やかさであったり笑顔であったりという、死に様を描いたということでもある。彼らを看取った人物は(シマに対する猫を除いて)誰も居ない。看取られることがなくても、想いは受け継がれていく。そうした死が描かれているのだ。その想いを受け継いだ者たちが、彼らの分まで生きてみせること。その中で、彼らの死は意味を重くしていく。

 ある意味において、桶谷さんは、自らの死をこうした形で後に残したかったのではないかとも思う。自分はもうじき、ひっそりと死んでいく。限られた時間の中で、果たすべき役割を全うすることは出来ないかもしれない。けれど、自分の残した想いは継がれていってほしい、未来は紡がれていってほしいのだと。亡くなってしまわれた今となっては尋ねることもできないが、本当にぎりぎりの所まで執筆を続けられたらしい桶谷さんは、出来る形で自らの役割を全うしようとしていたのだと思う。#24で消えていった彼らと同じように。


 そして退場者ではないのだが、ゼーガの桶谷脚本といえば忘れてはならない重要人物がルーシェン。
 ルーシェン達の居るシマのオリジナルのサーバーにアンチゼーガ・マインディエが迫る。ルーシェンは生きることの意味を、愛する者のために戦うことで確かめようとする。それは自らの憧れであり、自分とは相容れない部分を持つが故に羨望の対象となった、ソゴル・キョウのための戦いとなった。

「君はいつだって嘘をつかない、いつだって。そんな君が好きでたまらない」

 ナーガがCEOを務めていたというIAL社に出資していたのは、マオ企業グループを率いたルーシェンの父。そんな環境で、ルーシェンは嘘と欺瞞とに囲まれて生きてきたのだろうか。クールを装ってみせるのも、他者への警戒というだけでなく、内面の熱さを隠すための仮面とも見える。
 だがキョウはそんなルーシェンの仮面を引き剥がしてしまう人物だった。想いのままに生き、愛する者のために戦うキョウを見て、ルーシェンはいつしか彼のようになりたいという想いを抱く。
 ──今となっては、桶谷さんが愛したものへの、決別の言葉とも読める。

「嬉しいんだよ、この痛みが」

 決死の戦いに臨む中、そう言って笑みを浮かべるルーシェン。朴さんの演技にも味があって、叫ぶでもなく力みすぎてもいない、独特の静かな力強さがある台詞だ。
 だがあまりにも鬼気迫る場面であるが故に、作り手のテンションの高さに受け手がついていききれなかったかとも思ってしまう。実際初見時には、キスしてグッバイまでは「あーぁ、やっちゃったー」くらいに思っていたのが、この場面では正直、そこまで行くのかと思ってしまったものだ。

 だが、この台詞は桶谷さんの本音だったのではないかと今なら思えるのだ。生きることとは痛みを伴うことであり、痛みを感じるということは生きているという証。そうしたことがゼーガでは何度も語られてきた。これはその一つの頂点にある台詞だ。生きているからこそ、この痛みを感じられる。それは、死を目の前に見ている人間にしてみれば、確かな喜びなのだ。

 死というものに対して無頓着であってはならない。そのことは充分分かっているつもりだった。なのに、桶谷さんの死に接するまで、この台詞の本当の重さに思い至らなかった。その自分の浅はかさを恥じ入るばかりだ。──ごめんよルーシェン。あんた深いわ。

 ともあれ、ビジュアルファンブックでもその旨指摘されているが、#24は桶谷さんにとってのゼーガの最終回というべき話であって、そこに込められている想いは尋常ではないほどに深くて熱いもの。なので初見ではその熱さに火傷をしてしまいかねないのだけれど、是非ともじっくりと味わっていただきたい逸品である。このことを改めて書くことで、想いを繋ぐことが出来ればと、一人のファンとして思う次第。

■#24関連記事
 #24「光の一滴」(地上波初見) / 是我痛と色即是空(#24つづき)#24 さらにつづき#24@AT-X

 →是我痛:ルーシェンの立ち位置

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B000MNP0SCゼーガペイン FILE.09
バンダイビジュアル 2007-03-23

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4775305220ゼーガペインビジュアルファンブック
新紀元社 2007-03-13

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コメント

改めて24話を見ました。
シマ司令と桶谷氏が重なって見えます。

この24話の脚本担当が偶然、桶谷氏になったのか。
それとも自ら希望して書いたのか。
あるいは、監督とかが、意図的にそう配置したのか。

いずれにせよ、すごいことだと思います。

投稿: KKMM | 2007.10.19 00:10

>KKMMさん はじめまして。遅くなってすみません。
 シマもほんとそうですけれど、登場人物のそれぞれに托された桶谷さんの想いがあるのだろうと思えますね。
 #24を担当されたのはローテーション通りなのかとも思えるのですが、それにしてははまりすぎとも。でもそれは他の方の「それぞれの最終回」も同様で。
 桶谷さんが通常のローテーションから外れていると思えるのは#12「目覚める者たち」と#14「滅びの記憶」のどちらか。#12も実に味がありますが、1回置いての登板だった#14もまた、桶谷さんが亡くなられてから見直すと胸がつまる脚本だと思います。

投稿: しののめ | 2007.10.27 21:32

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