是我痛:ロケ地ツアー再訪編
ゼーガペインのロケ地ツアー(聖地巡礼)の再訪編。新浦安の夕暮れと新東京タワー建設工事現場。
●舞浜→新浦安→浦安南高校(1/24)
ロケ地ツアー以外の理由で舞浜に行くなんて何年ぶりだろう、というこの日の午前中は生憎の雨。でも舞浜に着いて見上げれば雲間に青い空。因みに舞浜駅の生徒会長のベンチ(というか椅子)の色がゼーガ劇中と同じ赤になっていた。
ケータイ舞浜イベントで坪井智浩さんのお声を生で聴いた後、次のプログラムまでの時間つぶしに結局ロケ地ツアーへ。
電車とバスを乗り継ぎ、冬将軍の寒気の中を歩いて海岸に立てば丁度日没時刻の17時。舞浜駅に出たところでそのまま舞浜大橋を目指して歩けば綺麗な夕焼けが撮れたのかもしれないけれど、見たかったのは日没時の海。雨の名残で雲が多くてこんな風景。
普段見慣れない海にはしゃぐ気持ちは、人影のない夕暮れの海岸の静けさと頬を刺す冷たい空気に鎮まってゆく。
前回この海に来たのはほぼ2年前。当時は工事中だった近くのマンションには今いくつもの灯り。この町を故郷とする人々が居るのだとそれは示しているのだけれど、来訪者である自分にはどこか現実感がない。作り物の町に背を向けて、その世界の端に来て初めて、作り物ではない海を目にすることができる。暗い空を映しこんだ海は揺らめく闇。夕焼けの名残の赤は一片の鮮やかさを放ちながらゆっくりと消えてゆく。
この日読んでいた本にこんな一節があった。
■『メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』熊野純彦
世界の風景は、ときに劇的に変容する。個々の印象が積みかさなり、ばらばらな感覚が連合されて、変化するのではない。静的な風景が反転して、隠されたその裏側が露呈するわけではない。散文としての世界が書き換えられるのではない。世界はそれ自体、あらかじめ動的で、詩的な構造をともなっている。
埋立地というのは人が作り上げた土地だ。都市計画によって作られた、整然とした新浦安の町並みには清潔感があるが、自然発生的で雑然とした浦安の古い町並みに比べて生活感が感じられない。新浦安の人口が多いのは見れば分かるはずなのに、住民の方には申し訳ないが、その町並みはどこか空虚で匂いがない。海岸まで出て潮の香りにほっとしたのは、それが本物だと思えたからなのだろうか。
本物と作り物との間で揺らぐ物語であるゼーガペインの舞台のモデルとして選ばれたこの土地は、元々そうした物語を孕んでいたのだ。ゼーガが他の土地を舞台にしていたら、まるで違った物語になっていただろうとも思える。
余談ながら、メルロ=ポンティの哲学というのはゼーガに直球ど真ん中ストレートだと思うのだけれど、直球すぎるからこそ言及されていないんだろうな。面白すぎてやばい。
日没時の新浦安に来たのは、望海の街の夜景を見たかったからでもあるのだけれど、あまりの寒さに新浦安駅までそのままバスに乗ってしまったので、遠景ではこんな写真しか撮れず。途中下車するべきだったかと思いつつ、駅前のエアレジデンス新浦安を撮ってみる。夜景はもっと練習しなきゃ駄目だなぁ。
●新東京タワー(東京スカイツリー)建設工事現場(2/16)
東武伊勢崎線・業平橋駅付近の車窓から。工事現場萌え。
この日は台東リバーサイドスポーツセンター前から今戸神社(招き猫発祥の地)→浅草寺と歩いたので、何気にドラマCDの浅草デートコース再訪に。今回の甘いものは、あげまんじゅうと人形焼と満願堂の芋きん。うまうま。
依然残るロケ地は洲埼灯台。花咲く南房総に行ってみたい。
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コメント
メルロ=ポンティとゼーガですか。実に鋭いですね。たいへん納得してしまいました。
メルロ=ポンティは、その身体性と精神性とに関するスタンスから、「両義性の哲学」なんて言われていますよね。それまでの哲学や思想が、やはりある種のあたまでっかちだったのに対して、彼はその思索の生成の場としての身体に注目したということを知り、とても感服した記憶があります。
ゼーガも、そういう両義性がありますよね。23話ラストの、キョウ達とナーガとの会話なんて、正にそうだという気がします。痛みを身体性のみに収斂しようとしたナーガに対して、キョウは、たとえデータでも、心の痛みを重視して、復元者となることを拒んだのですから。正に両義的だと思います。
投稿: yehl431 | 2009.02.23 23:19
>yehl431さん こんにちは。
メルロ=ポンティについてコメントありがとうございました。
両義性というのはそういう見方もあるのかと、#23の解釈について興味深く拝見いたしました。
まだまだ自分は勉強が足りなくてもどかしいのですが、ゼーガと哲学についてはまた改めてまとめてみたいと思っています。
投稿: しののめ | 2009.03.11 23:18