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2010.06.23

沖縄慰霊の日

 65年目の慰霊の日、梅雨明けの沖縄は今年も夏の空。

 普天間基地移転問題で例年になく彼の地での基地反対の訴えは高まっている。「最低でも県外」との鳩山前首相の言葉は空しく散った。菅首相は県民への負担を「全国民を代表しお詫びを申し上げ」、そして「率直にお礼の気持ちを表したい」という言葉を口にした。

菅首相、沖縄の戦没者を悼む「慰霊の日」に基地負担の謝罪と感謝の意を表す - インターナショナルビジネスタイムズ(IBTimes)

沖縄には米軍基地が集中し、大きな負担をお願いしております。そのような負担を掛けてきたことに対し全国民を代表しお詫びを申し上げます。他方この沖縄の負担がアジア太平洋地域の平和と安定につながって来たことについて、率直にお礼の気持ちを表したい、沖縄の負担軽減と危険性の除去に、一層取り組むことをお約束します」と述べた。

首相が沖縄を初訪問 普天間問題の争点化避ける狙い  (1/2ページ) - MSN産経ニュース

自民党政権下でも首相が追悼式で負担軽減を約束してきたが、「おわび」に踏み込んだのはここ10年では初めてだ。

 ここまでの負担を強いなければ守れない平和と安定とは何だろう。米軍の軍事力に頼らずとも、周囲の国と平和共存できる道はないのだろうか。それこそ仲井真知事の平和宣言でも触れられていた、琉球王朝時代から彼の地が育んできた ── 小さな国ながらも大国と渡り合うのに身に着けてきた ── 国際交流の歴史と伝統とが力になってはくれないだろうか。沖縄に学ぶべきことは沢山あるはずだ。

 2010年6月23日。この日は日米安全保障条約、日米地位協定が発効してから50年目になるのだとも平和宣言にあった。以前から知りたかったのが、この日沖縄の米軍基地で何らかの行事は行われるのかということだった。渦中にある普天間飛行場では訓練を自粛し、この日ばかりは周囲も静かになるのだという。米軍機の発する音は65年前から変わらずに住民の心と体とを震わせている。


 一方でこんな記事があった。

平和へより強く 米でも「慰霊の日」 - 琉球新報 -

米カリフォルニア州サンディエゴ市で23日正午、沖縄の慰霊の日に合わせた平和祈念行事が初めて開かれる。同市の「アジア太平洋祈念碑」の前で参加者が黙とうをささげ、ジュリー・サンダース・サンディエゴ市長が平和宣言をする。現地の大学学長や映画監督らでつくる市民団体が企画した。同市は今後、毎年慰霊の日に祈念行事を行う予定だ。
<中略>
 発起人の村上清さん(福岡県人会会長)と、村上さんの妻で宜野湾市出身の佐和子さん(旧姓・山城)は「国境や宗教に関係なく、慰霊の日を世界中で平和を願う日にしたい。もっと多くの団体に声を掛けて、6月23日を世界の恒久平和を願う日にしたい」と語った。

 鉄の暴風が吹き荒れた沖縄の地上戦では、当時の沖縄県民の4分の1である20万人が亡くなったという。沖縄の前にはサイパンの悲劇があり、ヨーロッパで、東京で、広島で、長崎で、そして中国大陸で、数え切れないほどの人々の命が絶たれていった。6月23日というのはその中のほんの1日を指すものでしかないのかもしれない。── けれど。


■終わらぬ戦世(いくさゆ)下 (6/23 朝日新聞夕刊)

 沖縄戦から20年後、読谷補助飛行場のパラシュート降下訓練事故の犠牲になった少女が居た。「もう恐くて住めない」と少女の母は那覇に転居し、その後ブラジルに移住した。最近、事故のことを日本のメディアが取り上げないことを少女の母は気に掛けていたという。「沖縄から基地がなくなるなんて、ないんじゃないの」事故はもう45年も前のこと、それからも度々、米軍の起こす事故や事件は絶えない。

「国を守るために、沖縄はずっと犠牲になってきた。今の本土は戦争もなく、安心して住める。それを背負っているのは沖縄なんです」 沖縄の戦後はまだ始まってさえいない。

 本土にも米軍基地はあり、同じように苦しむ人は居る。けれど沖縄の負担は桁外れに大きい。今も戦後が始まっていないという彼の地にとって、6月23日は「組織的な戦闘が終わったとされる日」でしかない。基地はなくなるどころか、既に恒久化しているという「危機感」が高まるばかりだ。

 始まってさえいない戦後とは何か。それを考える日として6月23日を思うのに意味はあるのかもしれない。


■沖縄は希望捨てない (6/22 朝日新聞朝刊文化面)

 上原正三さんのインタビュー記事。特撮で沖縄出身の脚本家としては金城哲夫氏がよく知られているが、ウルトラシリーズや東映作品などの脚本家である上原氏も沖縄出身。

1955年。大学進学のために上京し、東京駅から下宿先の杉並区の荻窪駅まで電車に乗って、衝撃を受けた。米軍基地がない。本土では基地のない街に人々が当たり前に暮らしている。戦後、疎開先の台湾から九州を経て沖縄に戻ったとき、米軍の「鉄の暴風」を受けて荒れ果てた故郷を見たときほどの衝撃だった。以来、自分を日本人と思ったことは一度もない。

 この衝撃はさぞ大きいのだろうと思いつつ、荻窪のもう少し先の立川には1977年まで米軍基地が存在していた。横田基地は今もまだ多摩にある。 (参考:都内の米軍基地)── それはさておき。

「憲法9条はすばらしい。でも、沖縄は9条の傘下にはない」。今も東アジアで何かあれば真っ先に攻撃されるのは沖縄だと思う。  普天間移設問題で、沖縄の思いはまた裏切られた。国民が本気で一体にならないと解決しないだろうと思う。  ただ、希望は捨てない。子どもの頃にウルトラシリーズを見ていた世代が「いま見返すと、新しい発見がある」と言ってくれる。声高に訴えなくても、見る人が年齢とともに受け止め方を深めてくれる。それが子ども番組の凄さだ。

 帰って来たウルトラマン「怪獣使いと少年」では、マイノリティーはいざというとき常に攻撃を受ける対象になるということを描きたかったのだとある。映像化されなかった脚本には、薩摩に侵攻された琉球の歴史を踏まえた、侵略されたものの恨みを書いたのだともいう。ウルトラセブン「ノンマルトの使者」が沖縄出身の金城哲夫氏ならではの脚本であるのと同様の想いがあるのだろう。

沖縄の精神はサンゴ礁のようだ、と思う。たとえ死滅しても、数年たつと卵が流れ着いて蘇生する。「ヤマト(本土)の都合や米国の兵力で傷つけられても、必ず復活する」。これから、沖縄のサンゴ礁を舞台にしたアニメやテレビドラマを書こうと思っている。

 このインタビューの締めくくりが、自分には沖縄のあの青い海を見るような清々しさだった。上原氏にしか書けない、復活の物語を書いていただきたいと思う。


 そして6/19に放送されたNHKスペシャル。この内容があまりにも重かった。再放送予定は未定。

NHKスペシャル|密使 若泉敬 沖縄返還の代償

1972年に、「核抜き・本土並み」をうたって実現した沖縄返還。しかし、その裏で、「有事の核の再持ち込み」を認める「密約」が、日米首脳の間で取り交わされていた。その交渉の際、「密約は返還のための代償だ」として佐藤首相を説得し、密約の草案を作成したのが、首相の密使、若泉敬・京都産業大学教授だった。若泉は、1994年に著作『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』でその秘密交渉を暴露し、2年後に亡くなった。若泉はなぜ国家機密を暴露したのか。

これまで全く明らかにされてこなかった、機密資料と新証言から浮かび上がるのは、沖縄返還の代償として結んだ密約が、結果として基地の固定化につながったことに苦悩し、沖縄県民に対する自責の念に押しつぶされる若泉の姿だった。本土と沖縄の断絶に引き裂かれ、破滅していった若泉敬の生涯を通して、いま日米間の最大の懸案となっている、“沖縄問題”の深層を描きだす。

 沖縄のためにと、密約まで交わして果たした沖縄返還。若泉氏を支えたのは、日の丸を手にした女性の写真だった。

 「小指の痛みを全身の痛みと感じてほしい」

 女性は沖縄の痛みを日本の痛みとして解決してほしい、そう思って、アメリカではない、祖国としての「日本」への復帰を願ったのだろう。だが沖縄が日本に返還されても米軍基地はなくならなかった。それどころかアメリカの文書には基地を「無期限」に使えるという文言がある。若泉氏は批判を覚悟で ── 寧ろ議論が起こることを期待して、自らの仕事を暴露した。だが外務省は終わったこととしてこれを黙殺した。番組では触れられていなかったが、1994年といえばボスニア紛争の真っ只中だ。日本の小指であるはずの沖縄は、NATOの一角である米軍にとっては後方支援基地の一つであっただろう。そんな折にあるはずのない、あってはならない「密約」の話を持ち出されても、知らぬ存ぜずで押し切られてしまったということだ。だがこれが若泉氏を絶望に追い込んだ。

 当時の沖縄県知事だった大田昌秀氏は、若泉氏の「結果責任」について「(日本の)戦後にこういう人はいない」というような感想を話す。しかしその責任の取り方ですら、自分は14年経った今になるまで知らずに居た。それは勿論「密約」の存在が明らかになったからこそのものなのだけれど、若泉氏の決死の覚悟での暴露が黙殺されてしまった、その力の大きさに恐ろしさを覚える。沖縄返還に多大な貢献をした若泉氏を社会的に抹殺し、更には自殺に追い込んでまで、守らなければならなかったものとは何なのか。

 若泉氏の自宅に残された、資料が整理されてしまった書庫の空虚さ。そこには膨大な記録と想いがあったはずなのに、すっかり消されてしまった。その空しさが若泉氏そのものを表しているようで、やりきれなかった。


 小指の痛みを全身の痛みだと、65年前に日本が考えられていたら。或いは広島、長崎の悲劇は起きなかったのかもしれない。そんなことも考えた。


 6月23日正午すぎ。南の島からこんなつぶやきが届いた。

この島に、この国に、二度と鉄の雨が降ることがないよう願います。

 胸が痛かった。嬉しいのと同じくらい、苦しさを覚えた。
 つぶやいてくれたひとは先の上原氏とは世代が異なる。この国とは日本そのものを指している言葉だと自分には思えた。沖縄のひとが日本を「この国」と呼ぶのと同じように、沖縄以外に住むひとが沖縄を日本そのものと思えているのだろうか。小指の痛みを自分自身の痛みだと思えているのだろうか。

 同じ国に住む者として願いを同じくしたいと思い、手を合わせた。


■沖縄慰霊の日 過去記事
 2004年 / 2005年 / 2006年 / 2007年 / 2008年 / 2009年

沖縄戦関係資料閲覧室

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